内田裕也の日本のロックシーンにおける軌跡

若い世代に迫力満点のビジュアルでTVに出てロックンロールと言ってるおじいさん、もしくは樹木希林の夫としての認識しかないかもしれない。
内田裕也の歴史は日本にロックシーンにおけるアーリーアダプターとして役割が見えてくる。

意外にも大阪出身。日本大学に進学し中退。
1958年バンドボーイとして佐川ミツオなどとロカビリーバンドのブルー・キャップスを結成。
次の年にナベプロに所属し、日劇ウエスタンカーニバルへ初出場。
その後かまやつひろしのサンダーバードなどを経て、62年に寺内タケシとブルージーンズにヴォーカリストとして参加。

この頃俳優としても活動をはじめている。
66年頃からプロデューサーとしての側面を見せる、沢田研二のタイガースを発掘し活動を支援する。

67年からヨーロッパを回遊しクリーム、ジミ・ヘンドリックス、ピンク・フロイド、ジャニス・ジョプリンなどに影響を受け麻生レミをヴォーカルとして内田裕也とフラワーズを結成。
69年にメンバーのヌード写真を使用したアルバム「チャレンジ!」が発売。

70年、メンバー脱退などを経て、前年に参加したジョー山中、石間秀樹などで再編成して自分はプロデュースにまわりフラワー・トラベリン・バンドとして結成し「Anywhere」を発表。
大阪万国博覧会の出演中に知り合ったカナダのロックバンド、ライトハウスに見出されカナダへわたりアメリカのアトランティック・レコードと契約し『SATORI』をアメリカとカナダで発売。

72年全国ツアーを行い、その後1973年、ライブアルバム『Make Up』を発表。
京都円山公園音楽堂で行われたコンサートを最後に解散。

73年にソロアルバムを発表し、同年樹木希林と結婚
75年からワールドロック・フェスティバルの主催し、ジェフ・ベックやニューヨーク・ドールズなどの来日に尽力。日本からは、イエロー、カルメン・マキ & OZ、クリエイション、四人囃子、フェリックス・パッパラルディー with ジョーなどが参加し札幌、名古屋、京都、東京、仙台などれ開催された。

その後『コミック雑誌なんかいらない!』で監督・脚本をしたり都知事に立候補したりだんだんミュージシャンとして活動よりキャラが先に立つようになってしまった。
彼自身はロックンローラーと亡くなるまで言っていたが、プロデューサー、エバンジェリストとしての功績が際立っている。